ウォーレン・バフェットなど世界中に多くの投資家がいる中で、日本でも100億円以上の資産を投資で獲得し「和製バフェット」の異名で知られる人物がいます。その人物とは、タマゴボーロで有名な竹田製菓の創業者「竹田和平」です。
今回この記事では竹田和平の資産や家族構成について解説していきます。
竹田和平の資産はいくら?
「日本一の投資家」や「和製バフェット」と言われている竹田和平の資産は100億円を超えていると言われています。竹田和平は、竹田製菓の創業者としてだけでなく上場企業の大株主として活躍。一時は130社以上で10位以内の大株主に名を連ねていました。
企業と株式投資どちらでも成功していることから100億円を超える資産を築いてこれたのでしょう。
保有していた株式
竹田和平は83歳で亡くなる直前まで保有していた株式銘柄は24社です。どの株式銘柄も数億円規模で保有しています。
保有株式の中でも「中部日本放送株式会社」「ムトー精工株式会社」「シグマ光機株式会社」の3社は竹田本社に名義を変更しています。恐らく資産相続にあたり莫大な相続税となることから、保有していた多くの株式を売却したのでしょう。
純金
竹田和平は、純金を家宝として所有していることでも有名です。保有している純金の金額については明かされていませんが、地元の愛知県名古屋市に純金歴史博物館を建設していることから推定で数十億円の純金を保有していると考えられます。
竹田本社は家庭向けに純金メダルを販売していることから、一般的に考えられない量の純金を保有している可能性もあるでしょう。
竹田和平の家族構成
竹田和平の家族構成について紹介します。
妻
竹田和平の妻については、名前やどのような人物かの情報は公表されていないため不明です。竹田和平は過去に「結婚するという事は長年一緒に暮らしていくことだから波動が同じでないとダメだと思っている」と話していたことから、竹田和平にとって相性が良い相手と結ばれたのでしょう。
また、出版した本では「夫は妻に信頼されるよう、日ごろから惜しみなく奥さんを楽しませなきゃ、何もしないで信頼してもらおうなんて虫が良すぎる」と書かれていたことから、竹田和平が愛妻家だったことがわかります。
また、出版した本では「夫は妻に信頼されるよう、日ごろから惜しみなく奥さんを楽しませなきゃ、何もしないで信頼してもらおうなんて虫が良すぎる」と書かれていたことから、竹田和平が愛妻家だったことがわかります。
長女
竹田和平の長女について、年齢やどのような人物かは公開されていないため不明です。長女の名前は「大島知美」と判明しており、苗字が変わっていることから結婚していることがわかります。
長男
竹田和平の長男は「竹田幸生」という名前です。1963年5月に愛知県で生まれ、86年には東京農業大学応用生物科学部醸造学科を卒業。その後、竹田本社に入社し、94年には取締役社長に就任します。
竹田和平が亡くなった2016年7月には竹田本社の代表取締役となり現在に至ります。
次女
竹田和平の次女は「竹田佳代」という名前です。年齢やどのような人物かは公表していないため不明です。
和平をモデルとした舞台を作るため、脚本・演出の徳田は竹田家に打診。その時に「うちの父、竹田和平を宗教のように神格化するようなことはおやめください」と話したのが次女の竹田佳代さんです。何度も家族と相談し、最終的に舞台はコメディー要素多めの面白い舞台に仕上がったと言われています。
竹田和平の跡継ぎは誰?
2016年に亡くなった竹田和平の跡継ぎは、長男の竹田幸生です。竹田家の4代目として、竹田和平の意思を継いでいきます。また、竹田幸生は竹田本社の代表取締役となり、様々な事業を引き継いでいます。
また、投資に関する知識や考え方は弟子となる本田晃一が引継ぎ、XやYouTubeなどのSNSで発信しています。
竹田和平とは
竹田和平とは、日本の実業家であり投資家です。タマゴボーロで有名な「竹田製菓」の創業や「純金歴史博物館」を解説した人物でもあります。
経歴
竹田和平の経歴について紹介します。
少年時代
竹田和平は1933年に愛知県名古屋市西区に生まれます。中学生時代は絶望的な状態だったと話しており、戦争の徴兵や名古屋から福岡に疎開した際には「よそ者が来た」と石を投げられたりと辛い時期を過ごしたそうです。そのような状況の中「太閤記」を何度も読み、貧乏だった秀吉が成功したことを教訓に「成功して見返す」ことを決意します。
竹田製菓株式会社を設立
17歳の頃、戦前から祖父が家業で作り始めたを製菓業を手伝い働くことになります。特にタマゴボーロを作らせたら日本一だと思い、タマゴボーロの生産を機械化します。22歳の頃、北海道で工場を設立し、独立を果たすも北海道でタマゴボーロが売れず苦戦。北海道は寒く、炭鉱業が盛んで肉体労働する人が多いためエネルギーの高い脂や糖分を含んだものを欲していました。そこで竹田和平はパインフレーバーのクリームを使ったパインサンドを提供します。パインサンドはたちまち評判となり、北海道での商売は軌道に乗りました。
様々な施設を開設
竹田製菓株式会社が成功した後、竹田和平は様々な施設を設立していきます。設立した施設は以下の通りです。
- 1970年:総合レジャー施設「わくわくセンター」を開設
- 1986年:愛知県犬山市にテーマパーク「お菓子の城」を開設
- 1987年:純金歴史博物館を開設
保有株式を減らす
実業家としてだけでなく株式投資も積極的に行ってきた竹田和平。一時は130社以上で10位以内の大株主となっていました。しかし、2011年に行われた金融・証券税制の改正や、加齢により小型株運用が難しいことから2014年に保有銘柄を20社までと8割以上減らします。
会社を合併しこの世を去る
2016年7月1日、竹田和平は竹田本社と竹田製菓を合併。様々な事業を竹田本社1つで行うようになりました。合併した20日後の7月21日、竹田和平は名古屋市の自宅にて老衰により亡くなったことが発表されました。年齢は83歳でした。
まとめ
今回は、投資家で「和製バフェット」とも言われていた投資家竹田和平の資産や家族構成について解説しました。竹田和平は株式投資での資産が100億円以上あると言われており、純金や企業の資産も加えるとかなりの資産を保有していたでしょう。みちくさばなしにあるゲームに課金をするのではなく、もう少し投資に予算を割いても良いかなとなと少し感じている今日この頃です。
2016年7月に亡くなった後は、息子の竹田幸生が跡継ぎとして、事業や株式を受けついでいます。竹田和平の投資術については、本田晃一や様々な人がYouTubeなどのSNSで発信しています。興味のある方は視聴してみてはいかがでしょうか。
