日本の実業家で「経営の神様」の異名で呼ばれている松下幸之助。パナソニック(松下電器)の創業者で、名前だけでも知っている人も多いのではないでしょうか。今回この記事では、松下幸之助のなにがすごいのかや子供たちにまつわるエピソードなどについて解説していきます。
松下幸之助ってなにがすごいの?
松下幸之助のなにがすごいかをそれぞれ紹介していきます。
電化製品を全国に広めた人物
松下幸之助は後にパナソニック(旧松下電器)を創業し、高品質な家電を大量生産。全国に系列店など強力な販売網を築き、白黒テレビや洗濯機、冷蔵庫などの「三種の神器」を広く普及させて日本の生活様式を劇的に変えた人物です。現在もパナソニック製品は様々な家電を販売しており、多くの家庭で利用されています。
リストラせずに世界恐慌を乗り越える
1929年に発生した世界恐慌によって商品が売れ残ってしまい、当時の松下電器は大量の在庫を抱えてしまいます。他企業は従業員のリストラに踏み切る所が多くありましたが、松下電器は従業員を半日勤務にすることで1人もクビにすることなく乗り越えています。
大手企業初の週休二日制を導入
現在は当たり前となっている週休二日制ですが、初めて導入したのは松下幸之助です。当時は日曜日のみ休みの週休一日制で、土曜日は午前中に働く半日労働が一般的でした。
1965年、松下幸之助は「休みの1日は休養のため、もう1日は教養のために使うこと」を理由に大手企業初の週休二日制を導入。それからしばらく経ち、1980年代の後半頃に週休二日制が一般的に広まっていきます。
無料配布の宣伝で成功
松下幸之助は、当時誰も行っていなかった無料配布による宣伝で成功した人物です。1927年4月、自転車用ランプの販売にあたり、1万個を無料配布する宣伝方法を考えつきます。
ランプには乾電池が必要の為、仕入先の岡田乾電池に「1万個の乾電池を無料でほしい」と要望。岡田乾電池の社長も「あまりにも乱暴な話」と相手にしなかったが、松下幸之助は諦めずに社長を説得したそうです。
結果として無料配布は大成功。岡田乾電池との「年内20万個乾電池を仕入する」約束を遥かに凌駕した年内47万個の乾電池を仕入れることになりました。
事業部制の導入
松下幸之助は、日本で最初に事業部制を導入した人物です。1933年に工場群を3つの事業部に分割。分野別に工場や出張所、研究開発や収支まで一貫して担当する事業体になります。
事業部制を導入した理由は、事業の拡大に伴い新たな仕事や処理すべき問題が山積みになり、松下幸之助一人では全てを見ることが不可能になったからと言われています。また、松下幸之助が休んだ際に仕事がスムーズに進みにくかったのも理由の1つです。
事業部の経営を任された人達は、自分なりの創意工夫を十二分に発揮して取り組んでいたそうです。
松下幸之助の子供たちにまつわるエピソードを紹介
松下幸之助には、2人の子供がいます。ここでは子供にまつわるエピソードを紹介します。
長男の早世
松下幸之助の長男である幸一は、1926年6月に誕生。待望の跡継ぎ息子として期待されていましたが、ふとしたことで脳症を患い僅か8か月後の1927年2月4日に夭逝しています。
松下幸之助は当時、家庭も商売も順調だったことから、この息子の死は青天の霹靂だったそうです。人生を悲観し、事業をやめようと思ったほどだったと言われています。
知人の子に孫の名前を付けようとした
長女である幸子のインタビューによると、松下幸之助の知人に子供が生まれた際に名前を付けて欲しいと依頼されます。
当時、松下幸之助は孫に正幸がいるのにすっかり忘れて「それじゃ、私の幸の字を取って正幸にしなさい」と発言。依頼した知人が驚き「よろしいんですか」と聞くと、松下幸之助はキョトンとしてしばらく考えてから「あ、そうか」と気付いたそうです。
松下幸之助の経歴
過去にエミンユルマズ 経歴について紹介しましたが、今回は松下幸之助の経歴について紹介します。
生い立ち
1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)で3男として松下幸之助は誕生します。1899年、父親が米相場で失敗し破産したことで和歌山市本町1丁目に転居。父親は下駄屋を始めたが商才が無く店を畳みます。
松下幸之助は小学校を4年生の頃に中退し9歳で宮田火鉢店の丁稚奉公に出された後、奉公先を五大自転車に変更。五代自転車ではサントリーの起源となる寿屋の鳥井信治郎と出会い、経営の師になります。
電気の仕事に興味を持つ
松下幸之助は、大阪市に導入された路面電車に感動し、電気に関わる仕事を志します。16歳で大阪電灯(関西電力)に入社し、7年間勤務します。
当時の電球は自宅に直接電線を引く方式のため電球の取り外しも専門知識が必要。簡単に取り外せる電球ソケットを考案します。
18歳の頃、関西商工学校夜間部予科に入学し、4年後の1917年に大阪電灯を依願退職します。
会社を創業
大阪府の自宅で妻・むめのとその弟・井植歳男、および友人2人の計5人で電球ソケットの製造販売に着手。新型ソケットの売上は乏しく、友人2人は幸之助のもとを去ります。窮地に陥っていた松下幸之助だったが、川北電気から扇風機の部品を大量受注したことで脱出。その後はアタッチメントプラグなどがヒットしたことで経営が軌道に乗ります。
1918年、事業拡大に伴い松下電気器具製作所を創業。取り外し可能な自転車用電池ランプを考案し、乾電池などにも手を広げます。
法人化と第二次世界大戦
1932年を「命知元年」に定め、5月5日に第1回創業記念式を開催。「水道哲学」や「250年計画」などを社員に訓示します。1935年には松下電器産業株式会社として法人化し、第二次世界大戦中は下命で軍需品の生産に協力します。
戦後はGHQによって財閥解体の一環として制限会社に指定。戦争協力者として公職追放処分によって社長を退きます。しかし、松下幸之助は「一代で築き上げたもので財閥に当たらない」と反論し、労働組合などがGHQに嘆願したことで制限会社の指定が解除。松下幸之助は1947年に社長へ復帰します。
会長に就任
松下電器の事業を拡大していった松下幸之助は、長者番付全国1位を計10回獲得。一生で約5000億円の資産を築いた億万長者と言われています。
1961年には会長に就任し、第一線を退くが、岩戸景気後の反動不況と相まって赤字に転落します。1964年には、家電品の廉売を巡り、当時のダイエー社長の中内㓛と30年に渡るダイエー・松下戦争が勃発するなど様々な話題を生みます。
晩年
1973年、80歳を機に現役を引退。相談役として活動を開始します。1984年4月、気管支肺炎のため享年96歳で死亡。死亡時の資産総額は約2450億円で日本最高と言われています。
まとめ
今回は、「経営の神様」の異名を持つパナソニックの創業者・松下幸之助のなにがすごいのかや子供にまつわるエピソード、経歴について解説しました。
松下幸之助は「電化製品を日本全国に広める」「大手企業初の週休二日制を導入」「初めて事業部制を導入」など数々のエピソードを残した人物です。
跡継ぎとして期待されていた長男が早世したりと辛い過去を乗り越え、事業を拡大していった松下幸之助。経営に興味のある方は、松下幸之助が提唱した「水道哲学」について調べてみてはいかがでしょうか。

